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思ったこと、とか?

彼女は安楽死を選んだ、の感想。

NHKスペシャルで放送されていた彼女は安楽死を選んだというドキュメンタリー番組。

www6.nhk.or.jp

多系統萎縮症という難病の女性が、自分の最期をどう迎えたいか…を考えた時に、安楽死を選んだ。家族は本人の意志を尊重して安楽死を受け入れる。

 

日本では安楽死を認められておらず、彼女はスイスで安楽死を施行した。

私個人的には、安楽死に賛成か反対かと聞かれたら答えは出ないのだけれど、私の死に関しては安楽死の考え方は賛成である。

ただ、あくまでも私に関しての話。

私には両親、兄妹、夫がいるけれど、誰の手も煩わせたくない。でも、この先何かの病気や障害になる可能性は充分にあるし、年老いた時に出来なくなることが多くなる、誰かの手を借りて生きることにきっとなる。煩わせたくない、迷惑かけたくない、ごめんね、ありがとうすら言えなくなる日が来ると思うと、ぽっくり何かで消えたいと思ってしまう。

でもそんな都合よくぽっくり消えることなんかできないし、多分自殺を考えたことある人や未遂に終わった人にあるあるだと思うけれど、考えれば考えるほど、誰かに迷惑かけないで、命を絶つことはできない。だからって安楽死をって言うのは安易な発想かもしれないけれど、私は自分の最期をどう迎えたいか?と聞かれたら、安楽死を選びたい。

 

福祉の仕事に携わり今年で14年目に突入し、色んな方の最期をみとどけ、現在進行形で、私は彼女のように難病や重い病気と闘っている方々の、身辺のお手伝いをさせてもらっている。

難病などの進行によって、目を開けていることすらしんどい、筋力が低下し経口摂取がままならなくなり胃ろう造設、人口呼吸器をつけないと自発呼吸が難しくなる…など、日に日に自分が弱っていく事を受け入れていかざるを得ない方々を私は間近で見てきたし、今も見ている。

誰だって、誰かの手を煩わせたくない。

トイレひとつとったって、誰かに、例えそれがナースだろうとヘルパーだろうと、ましてや家族には見られたくない。まだトイレに手を借りながらでも行けるならいい、いいってことはないけれど、便器に座って排泄するのと、紙おむつの中で排泄をするのは、全然違うこと。ご本人の辛さや苦しみは計り知れない。

生きる尊厳とはなんなのだろうと…。

 

このドキュメンタリーでは、ご本人の苦悩とともに、家族側の気持ちも放送されていた。彼女には、姉2人妹1人がおり、妹は安楽死という選択をせず、家族や周りに頼って生きて欲しいと最後まで願っていた。姉2人は、妹よりは日常的に彼女の介護をしているようで、彼女が難病と診断されてから一緒に暮らしたり、だからこそ、安楽死を反対できずにいた。

本人が決めた事に、うん、いーよって言えないのは当たり前で、それでも、見届けて、でもきっとこの先もずっとずっと、安楽死を認めてよかったのかなって悩むのだと思う。

 

スイスで安楽死を施行する前に、医師が彼女に、確認した言葉が印象的で忘れられない。

彼女は難病のため、まだ若いけれど筋力が衰えてしまう。ゆえに、病気の進行を危惧して、出来るだけ自分の意志をきちんと伝えられる間に安楽死を施行したかった。

日本からスイスに行ける体力がある間に。

でも、もし彼女がスイスに住んでいたら、こんなに若く安楽死を選ばなかったんじゃない?と医師は言った。

家族は揺らいだ。

でも彼女は、今が死ぬ時ではないかもしれないけれど、いつが(ベストな)死ぬ時期とかは、人間にはない、と安楽死を決断した。

 

最期は、自らのタイミングで、身体に点滴を流していく。自分の手で最期を本当に迎えていた。綺麗な顔で、本当に苦しまず眠るように、姉2人にお礼を言いながら数分で優しく悲しい時間が流れていた。

 

死を覚悟し自分の手で(クレンメを開いて滴下する)最期を迎えることに一切躊躇がなく、私は彼女の決意に敬意を表するとともに、ご冥福をお祈り致します。